沈没船でパーティーしよう

ひとりで生きて死にたい

死ジョークと終焉の受容/通勤ハプニング/インターネット思念体

死ジョークをよく言う人がいる。死ジョークというのは私が勝手に名付けた「ジャンル:死」のジョークのことだ。簡単に言うと「俺はもうそろそろ死ぬからな~、ガハハ!」というやつである。死ジョークを言う人間はだいたい高齢者で、陽気もしくは穏やかな性格の傾向がある気がする。実際に年齢的に死を間近にして「俺はもうそろそろ死ぬからな~、ガハハ!」と笑えるのは、自らの老いや命の終わりを受け入れているからなのではないかと接していて思う。老いや死に怯えて抗っている人間には死ジョークの類いはなかなか言えない。自分の欠落や歪みをコンプレックスにしている人間にはそれらを自虐にして笑うことすら難しいのと同じだ。実際に死ジョークを連発する知人に「死を受け入れてるんですね」と聞いてみたところ「やれることはやったからなぁ」とさっぱりとした返事だった。いわく、「バブルの頃に遊ぶだけ遊んだからもう満足」なのだそうだ。年齢を重ねた分の重み感じた。死ジョークには己の人生を受容する重みがあるからこそ軽やかな冗談として成立するのかもしれない。これを私のようなまだ人生経験の少ない精神障害を持つ若者が口にしたら、かなりニュアンスが変わってしまう。精神を病んだ者たちの生への絶望と死への希求もそれはそれで大変切実なものではあるが、この場合の「死ジョーク」は穏やかな人生の受容の表れなので、また別のジャンルとして扱わせていただく。私は死ジョークを聞くと、正直笑いづらい。ダダスベリさせても気の毒なので「も~、またそんなこと言ってるよ~」ぐらい軽く返して冗談っぽい空気は保っているが、本当は笑っていない。だって私はその人に死なないで欲しい。でも本人はいずれ来る自らの終焉をごく自然に受け入れている。人生を惜しんでいない。まだまだ人生の惜しい私は死ジョークに何とも言えない。

 

普段の通勤は同居人たちの車についでに乗せていただいているのだが、たまに同居人たちの予定とタイミングがズレて電車で通勤することがある。今日から三日間は電車通勤だ。初日からさっそく寝坊して駅までダッシュした。ギリギリ間に合った。電車通勤の日はいつもと違って時間に余裕がないので、毎回寝坊して駅までダッシュしている気がする。「こういうファッションが流行っているらしい」というインターネットの伝聞通りの格好をした人たちを何人も見かけて、本当に流行っているんだなぁと実感する。今日は真向かいに座った乗客が数年前に片想いしていた人と激似で朝から動揺した。私は軽い相貌失認があり、自分の顔認識能力を全くもって信用していないので恐らく気のせいなんだけど、ついドキドキしてしまった。指の細さも似ていた。優里の「ドライフラワー」とかしっとり重めの失恋ソングを聞くとケッしゃらくせえなという気分になるくせに、しっかり過去の恋愛を引きずりがちだから嫌になる。一回だけ二人で一緒に遊びに行った時の写真をまだ消せてない。可愛かった。

 

生死や恋愛の話をしたら生身の肉体の気配でなんか急にエモくなってしまったみたいで嫌だな。筆者はインターネット思念体なので実は肉体がないのです。電子の海を漂う脳があるだけ。インターネットに放った文章なんて好き勝手に読む人の踏み台にされるものだから、私の文章をどのように読みどのように楽しんでも構いません。そういう、自分の書いたものを一方的に好き勝手に消費されることも含めて面白がるのが不特定多数に向けて何かを放つ旨味だなと、今は知っている。書きたいことしか書かないから傷つかない。血をインクにする必要はない。皆さんも好きにしてね、私も好きにします。