沈没船でパーティーしよう

ひとりで生きて死にたい

長風呂はレジスタンス

長風呂にハマっている。私は元々風呂が苦手でのぼせやすいので、人から見たら長風呂というほどの時間でもないが、今は風呂に閉じ籠ることに注力している。急かされないように同居人たちが全員入り終わってから、入浴剤と飲み物とお菓子とおもちゃを持ち込んで、とにかく気が済むまで風呂に閉じ籠る。風呂に入っている時は一人きりだ。私は美容のためでも健康のためでもなく、真に一人きりになるために風呂に閉じ籠っている。

私の人生は私のものであると自分自身に証明する活動をずっと続けている。誰にも侵襲されない安全な世界に閉じ籠って、生き延びるための、自分しかいない一人きりの時間を確保することに余念がない。それは時に長時間の睡眠であったり、時に自慰行為であったり、時に小説の執筆であったり、時に軽装での夜の散歩であったり、時にイヤホンで音楽を聴くことであったり、時に一人きりで喫茶店に駆け込むことであったりする。そして今は長風呂も。

生きていく上で社会と交わることは避けられないので、生きているだけで常に誰かにうっすらと侵襲されている感覚がある。元々の脳の特性的にも、過干渉な養育環境的にも、自他分離が苦手な傾向があるので余計にそう感じるのかもしれない。ただ私自身の問題だけではなく、実際に侵襲的な人間というのは世の中に大勢いる。これは侵襲者への抵抗である。侵襲者に心の秘匿領域を奪われないための、自分を守るための抵抗である。他人の気配がしない時間。自分以外誰もいない時間。誰にも侵せない時間。

 

今は個包装の使いきりタイプを使用しているが、今度の休みに大容量のボトルに入ったお気に入りの入浴剤と湯船で遊べるアヒルのおもちゃを買いに行こうと思う。

近況報告/歩きまくり/眠りまくり

直近の更新が限界な感じのままブログを放置してしまった。生きています。とりあえず、不安定になっていた職と住居のうち職は今のままでなんとかなりそうです。詳細は省くが一から転職しなくても人員配置移動だけでなんとかなりそう。なんとかする。仕事自体は楽しいので辞めたくない。新しい企画も始まって忙し楽しの日々です。まぁパワハラをする奴はクソですが少し距離が置けそうなのでよしとします。住居をどうするかも当面は焦る必要はなくなったのですが、今の暮らしのしんどさも消えはしないので新居はぼちぼち探します。

以下近況。

 

・歩きまくっている

なんかずっと何かに怒っているけど何に怒っているかは正体が掴めずに定期カウンセリングに駆け込んだら、一通り聞いてもらった上で「日光浴びてウォーキングしてみな~」(意訳)とのアドバイスをもらい、実践している。朝家を出る前にしばらく太陽の光を浴びたり、仕事帰りに散歩がてらフラフラしたり、休みの日も散歩がてらフラフラしたり、散歩がてらっていうか散歩がメインになっている。歩くの大好き。音楽を聴きながら近所の散歩スポットをずっとウロウロしている。かなりスッキリする。最初は「運動した方がいいのは分かってんだけど寒いんだよな~~」と渋っていたが、始めてしまえば何てことなかった。身体の中で煮えたぎるエネルギーを自傷や自罰で暴発させずに適切に発散させる方法を、そろそろ習慣として身に付ける時期だなと思う。

 

・睡眠スコアバトル優勝候補

寝る前に環境音を流すのに使っているアプリに睡眠スコア計測機能がついていることに気付いた。スマートウォッチみたいに直接身体に着けるものではなくスマホを枕元に伏せておくだけのタイプなので正確性はそんなに高くないと思うけど、まぁ趣味程度なら構わないだろうと試しに毎日使っている。私は子どもの頃からロングスリーパーでとにかく長時間しっかり寝ないと身体が保てないんだが「寝すぎても身体に悪いよ」と良かれと思って言ってくる人もいる。それは人によるだろ。個人差あるだろ。私は寝ないと無理なんだよ。脳の情報処理量が人より多いからその分多めの睡眠が必要なんだよ。とはいえ「もしかして私は質の悪い睡眠をダラダラ取っているのだろうか……」という不安が過ることもあった。そして計測してみた結果がこちら。

異様なハイスコアを毎日叩き出している。私の睡眠の質は良いことがとりあえず実証された。思えばこの間人生二度目の飲酒をした時も「酔うと睡眠の質が下がりすぎる!飲まない方がマシ!」と憤慨していた。逆に言えば普段しっかり質の良い睡眠を取ってるからこそ飲酒時のスコア低下がよりハッキリ体感出来たのだろう。生活に余裕が出来たらスマートウォッチなどを買ってより正確な睡眠スコア計測をしてみるのも面白そうかもしれない。睡眠スコアバトルで優勝したくなってきた。眠るの大好き!

泣きながらカップ麺を食べた元旦の夜

元旦の夜、カップ麺を食べながら泣いた。イヤホンからは癒されたい私を全肯定する女の子が囁くASMRシチュボ動画が流れている。「あなたはとっても頑張ってるよ」と画面の中の女の子に言われて、頑張ってるから何なのと思う。そんなの知ってるよ。私は今まで生きてきてずっと、頑張らなかった時はないよ。頑張ったからって求めるものは手に入らない。頑張ったからって望む結果は出ない。人から認められなくたって頑張ってるのは前提で、頑張ってもどうにもならないから苦しいのに。「無理しないで」と画面の中の女の子に言われる。無理しなきゃ安全な環境を確保出来ないんだから、多少は無理するしかないんだよ。ぶっ壊れないギリギリのラインを見極めながら無理せざるを得ない局面だってあるでしょ。

有毒で依存性のある物質に似た無責任全肯定を耳に流しながら、私は友人に見捨てられた時のことを想像してラーメンを啜って泣いていた。この人に見捨てられたら、私は生きていけるんだろうか。大丈夫、私は意外と頑丈なので何やかんやで生きていける。死ぬほど落ち込んで悲しんでも死なない確信がある。ただ、傷は治らないかもしれないし、その後の性格は嫌になるほどひん曲がるかもしれない。

抗不安薬を飲んでしばらくすると、特定の友人に見捨てられ不安を慰撫してもらいたいがためだけのクソLINEを送ってしまう衝動と返信が来ないことによるおかしくなりそうな不安は落ち着いてくる。見捨てられ不安から来る確認行為って本当に恐ろしくて、やってもやっても不安はおさまるどころか増幅していき、さらに確認行為がエスカレートする無限地獄にいともたやすく陥ってしまう。そして自分の信用はどんどん減っていき、「見捨てられるかもしれない」という不安が現実に近づいていく。冷静になったら何も良いことがないのに、依存性が強くて自分の意志だけではなかなかやめられなくなる。だから薬を飲んで荒ぶる不安の衝動を落ち着かせている。これでも昔よりはだいぶマシになりました。地道にやっていくしかない。

大人の階段を爆上がるアラサー(性別不問)、あるいは成熟について

20代折り返し地点を過ぎてもなお、私は歳を取ることを「大人になる」と捉えている。死を迎える瞬間まで大人への階段に終わりはない。「成熟する」と言い換えてもいい。私は平均的な同年代より精神の発達が偏りがちで、養育環境の影響もあり、情緒面での思春期を迎えるのもかなり遅かった。なので、とにかく成熟していくことが生きていく上で何より嬉しいし、年相応に加齢していくことが楽しくて仕方ない。

だから今、風呂嫌いだったのに温泉に行きたい気持ちがムクムク芽生えて自宅で入浴剤を入れた風呂にゆっくり浸かったり、脂っこい食べ物を昔ほど食べられなくなって野菜の入ったみそ汁が美味しいを通り越して心身に沁みるようになったり、インテリアに興味が出始めてルームツアー動画を見てIKEAの家具を調べたり、落ち着いた色味の服を着たくなったり、アラサーあるあるがこれでもかと我が身に降りかかる人生を大変エンジョイしている。肉体がゆるやかに衰え始めていくおかげで、逆に生を実感出来ている。昔はもっと心だけで生きていた気がする。「ドライヤーで髪を乾かすと風邪を引かなくなる」とかすら気付かないぐらい、肉体を置いてきぼりにして生きていた。まぁ正直今も無性別サイボーグになりたいとは思っているけど、少しずつ精神と肉体の乖離はマシになってきている。長らく流動的だった性自認も最近はすっかり固定されてきた(固定されたからといって結局シスジェンダーにはなれなかったけども)。

少し抽象的な話だけど、それぞれあちらこちらに点在する統一感のない自我たちの結びつかなさのせいで、自己の連続性が感じられないことに悩まされていた。突き詰めると昨日の自分と今日の自分が同一人物と思えなかった。連続性の感じられなさは自分以外にも当てはまっていて、他者に対しても世界に対してもとにかく「次の瞬間には何が起こるか分からない」という恐怖でいっぱいだった。それは一面では事実でもあるが、私が思っていたほど極端な出来事はほぼ起きない。良いことも悪いこともだんだんと積み重なっていくもので、そりゃあ急激な変化が起こることもあるけど「いきなり爆発して全てが無に帰す」みたいな極端な急激さではない。本当は、いきなり爆発して全てが無に帰って欲しいと望んでいたのは私だったんだろうな。現実ってリセットされないから地道にやっていくしかないんですよ、恐ろしいですね。そんな二極の世界観から少しずつ抜けてきた。中庸な感覚とともに、ようやく自己同一性が育まれてきた。まったく矛盾した側面を矛盾したまま持ち合わせているのは「どちらかの一面が正しくないから矯正しなければ」という話ではない。まだまだゼロ百思考になることも多いけど、全体的にまぁしょうがないですねと思うようになった。良い具合に歳を取りましたね。

まぁしょうがないですね、最悪も最高も矛盾しながら普通に両立している混沌とした現実のめちゃくちゃさを、気付いてしまったらもう受け入れるしかなくなる。まぁしょうがないですね。私の理想を実現してくれる人は存在しないから、「趣味や価値観の合う人と恋人(あるいは任意の特別な関係性)になりたい」なんて望むぐらいなら鏡と会話していた方がいいよ。これは本当です。他者の人格とか尊厳を無視して自分の夢理想欲望を一方的に投影する鏡にするぐらいなら、本当の鏡に映る自分と会話して夢理想欲望は自力で何とかした方が楽になるよ。喉が渇いて合成甘味料たっぷりのジュースを飲んで一瞬気持ち良くなるものの結局余計に喉が乾くみたいなことをもうやめよう。無味無臭の水を飲み続ける地道な退屈さに耐えなければ永遠に喉は潤わない。例え話です、伝わりますか?伝わらなくても大丈夫ですよ。何も分かってないのに完全に分かったつもりになるのが一番怖いですからね。反射で「分かる~」なんて鳴くぐらいなら「よく分からんけどこういうことだろうか」と黙って自分の頭で物事を咀嚼する習慣をつけたいですね。

 

こういう抽象的な話をずっとしていたい。来年もよろしくお願いします。

おやつ/絶望は前提/新生活夢想

ここ数日。紅茶を飲んでケーキを食べた。シュークリームを食べた。ココアを飲んだ。グミを食べた。ポタージュを飲んだ。ミックスナッツを食べた。仕事をしている。家に帰ったらおやつを食べ続けている。モンゴルナイトフィーバーを流しっぱなしの部屋。モンゴルナイフさん、好き。夕飯の食器を片付けられないままダラダラ過ごして寝落ちして朝になって洗う。友達と通話で喋りまくる。仕事でも業務の一環として喋りまくって自分で編集している。日々常に絶望していて、その絶望がある一定のラインを越えたあたりから格段に楽になった。絶望はラインを越えると当たり前の前提として受け入れるしかなくなるから。世界への絶望は前提。前提として受け入れればそこから先はこれからどうしようかと落ち着いて考えられる。カウンセリングの先生に「たくましくなったね」と言われた。死にたいとは今は思わない。死んでる場合ではないし、死にたいとか死にたくないとか言ったところで誰にも死のタイミングは選べない。死にたくても死ねないし死にたくなくてもある日突然死ぬ。早く引っ越しをしたい。これはやむにやまれぬ引っ越しの予定なので、せめて楽しい新居生活をシュミレーションしてモチベを保っている。家具全部IKEAの色素薄い系統にしたい。合わせ味噌で野菜たっぷりのみそ汁を作りまくり飲みまくりたい。野菜を刻んで冷凍でストックしたい。好きなタイミングで入浴剤を入れたちょうどいい温かさの風呂に入りたい。一人で安心して過ごしたい。私の夢想なんてそんな些細なものですよ。些細な夢を支えに目の前の状況をやり過ごし乗りこなしの日々です。

前言撤回ケーキが食べたい

以前の記事で「クリスマスケーキは特に食べたくないので買わないことにした」と書いたが、ここに強く前言撤回します。クリスマスケーキが食べたいです。クリスマスケーキを食べるぞ。何も予約してない状態で今さら豪華なケーキが手に入るとは思わないけど、せめてコンビニで売れ残ってるやつぐらいは食べたい。ついでにチキンも食べたい。ピザでもいいかも。とにかく何かを甘いものに合うしょっぱいものを用意したい。無糖炭酸水も飲んじゃおうかな。急にどうしたんだ???言ってること変わりすぎじゃない???って思われそうだけど、私の生活状況もそれぐらいすごい勢いで変わっている。端的に言うと人生がなかなか限界だからこそ、せめて節目節目で自分を労らなければとてもじゃないがやってられない。職場が本当に終わるところまで終わっていて、もはや崩壊への一途を辿るのみなんですよ。私がやるべきことは、そ知らぬ顔していつも通り出勤してこっそり訴訟に向けた証拠集めを積み重ねつつ次の家を探す準備をすることなので、もうケーキとチキンでも食べないとやってられないんですわ!!季節の節目ぐらい羽目を外させてくれ!!オチなんてないよ、人生は嫌でも続いていくんだから。誰かが終わらせてなんてくれやしない。ヤケクソだよこんな文章。やるしかない。やるしかないからやる。弊社はせいぜい派手に散ってくれ。

ASMRの裏側/私に触るな/父のこと

仕事に夢中になりすぎてすっかり無趣味状態だ。休日にやることがないので何かしたいな~とずっとぼんやり考えていて、ふと「ASMRシチュボ動画でも作って雑に性的消費されるか」という破滅願望的思いつきが降ってきたので調べてみたら、バイノーラル音声収録に対応したマイクは安くて七万円とかだった。七万て。すごい、桁が違う。よくプロの動画に出てくるコナンの犯人役に酷似したマネキン型のマイクは百万円だった。見間違いかもしれない。私も見間違いだと思いたい。七万~百万円の世界。すっかりやる気はなくなったが、世界の裏側を見た気分になった。私が好きなあの配信者も七万円以上のマイクを持っている。金銭という尺度が入ることによりつかの間の夢を見に行く動画が一気に現実へとにじり寄ってきた。

 

私に触らないでくれ、とずっと思っている。私はASDで触覚過敏がある。他人から身体に触られるのが本当に無理、我慢ならないぐらい大嫌い。みんなそうだろと思われるかもしれないがこれは度合いの問題で、極めて親密な関係の相手からちょっと呼び止めるために肩を叩かれるだけでも大パニックを起こしてぶちギレてしまう。加えて人間嫌いから端を発した強迫的な穢れへの恐怖もあって、身体だけでなく私物を触られるのも大嫌いで、ひどい時は共用のドアノブに触れることすら躊躇って手を消毒しまくる。ボールペンの共有すらしたくない。私に触らないでくれ。どれだけ親しくても大好きでも予告なしに身体に触らないでくれ。私に触るな。私に触るな!don't touch me!叫んで回りたい。耐え難い。私だって人の肌のあたたかさがうらやましくなる時もあるけど、それでもいざ他人から触られるとゾッとしてしまい無理なのだ。相手への好意とか、性欲とか性的指向とかとは全く違うベクトルの問題。どうしようもない、自分の肌で自分の肌をあたためるしかない。

 

もしかしたら今の私は目の前の仕事に逃げることで自分の人生を真剣に考えないようにしているのかもしれない。分かっているけど、改めてこの社会を見渡せば絶望しか湧いてこない。そういうところは少し、父親に似てきた気がする。父は何というか、家庭を持ち子を育てるにはあまりにも精神的に未成熟な人だったな、と大人になってからは思う。大人になった今は、父の孤独や痛みと少し距離が近付いた気がする。断言したくないのは彼を軽蔑しているからだ。けれど同情もしている。私もあんな風になっていたかもしれないからこそ、今はヒリヒリとした危機感とともに父のことを思い出す。もう彼が死ぬまで会いたくないけれど。